【地元を離れる】千葉から長崎へ(※個人的な備忘録です)
千葉から長崎へ引っ越しをした際の気持ちを忘れたくないので、綴っておく。
※人に読んでもらうものではなく、とっても長い私の備忘録です。
千葉県房総半島に生まれ育ち、東京で4年間大学生活を送った後、地元に戻り、実家暮らしを再開した。
今の私が思うことは、社会人として8年間過ごした地元は、思いがけないほど想い出が詰まった、本当の意味での「ふるさと」になったということ。
この8年間は、生まれてから高校を卒業するまで過ごした18年間の何倍も濃い時間だったように思う。
それは、社会人になって初めて自分の地元のことをよく知り、誇りを感じ、愛着が生まれたからだと思う。良いことも悪いことも沢山あったが、沢山の経験をし、生まれて初めて「自分の成長を自分で感じる」ことができた。
そんな、かけがえのない故郷を離れるのは、正直とても寂しかった。
昨夏、実家を離れることを決めると、いつも私の味方でどんな話も親身に聞いてくれた母と、いつもふざけたことしか言わないし、学生時代には本気の喧嘩をしていた父との毎日が、急に尊いものだと思えてきた。
年老いていく両親。「一緒に過ごせる時間は、あとどのくらいなんだろう?」などと考え始めてから、引っ越しの日まで毎晩寂しさを感じながら眠った。
引っ越しは、コロナ禍での移動なので、細心の注意を払って、身を隠すような気持ちだった。誰とも会わない日々だったし、ほとんどの人に出発日を告げなかった。
引っ越し作業もコンパクトに、荷物は最低限のものを段ボール3つに詰めて宅配便で送った。引っ越し先は、結婚を予定している相手の住んでいる長崎。
自分の選んだ道を進む時なのに、楽しみも沢山待っているはずなのに、あまりにも寂しさが大きすぎるので、正直「自分が進もうとしているこの道は正しいのか?」なんて何度も思ってしまった。
人生の分岐点であることを意識しすぎて気負いしているのかもしれない。
正直今もよくわからない。長崎に着いて1週間経った日は、なんだかとてつもなく母に会いたくて、一晩泣いた。いや、今も会いたいし、いつでも会いたいのが母だと思う。
長崎への移動日。
朝5時10分発の羽田空港行のバスに乗るため、母が駅まで車で送ってくれた。父も起きてきて、玄関で「がんばれよ」とだけ言った。持病のある父なので、「私いなくてもちゃんと運動してね。コロナには本当に注意してよね。」なんて、最後まで憎まれ口を叩いてしまった自分が情けない。
駅までの車中は、母と二人。中学~高校と陸上競技部に所属していて、早朝に練習や大会に送ってもらった感覚を思い出した。思えば母は、いつも当たり前のように朝ご飯を用意して笑顔で送ってくれた。この日もあの頃と変わらず、同じように笑顔で私を送り出してくれた。
母と別れるときは本当に寂しかった。心細くて泣き出しそうだったけど、偶然にも駅のバス停には前職を同じタイミングで退職した方が、通勤のために同じバスを待っていたので、なんとなく心強かった。
それでも、発車するバスの車窓から母の車を見つけると、こっちを見て手を振っていてくれた。私も手を振ると、突然涙が溢れ出した。
母と別れるのは、大学進学時以来。
私が大学に進学した年は、リリー・フランキーの「東京タワー」が流行った時期だった。映画もドラマも放映されて、コブクロの「桜」が流れる中、「おかん」を思いながら上京する主人公に思いを重ねたことを思い出し、更に胸が押しつぶされそうになった。バスの中なので、嗚咽をこらえてこっそり泣いた。感情がよくわからなくなった。
羽田空港に着くと、前職でお世話になった方が、座席から「がんばってね」と見送ってくれた。尊敬していた方だったので、旅立ちを見送ってもらえることが嬉しかった。私も、「がんばってくださいね!また何かでご一緒しましょう!」と、伝えてバスを降りた。
羽田空港は、コロナ禍でがらんとしていた。飲食店やお店はほとんど閉まっており、展望台にも出られなかった。数か所には指手消毒用のアルコールが設置されており、マスクをしていない人は誰一人いなかった。
飛行機の搭乗が始まると、やっと一人じゃなくなると、ホッとしたのを覚えている。
それでも、離陸して旋回し、上空から千葉県の形が見えた時、千葉を離れる自分を実感して、また泣いた。31歳の大人が一人で泣きすぎだけど、涙が枯れる気配は全くなかった。コロナ禍で機内もガラガラだったのが救いだ。
そのうち、富士山が見えると機内アナウンスが入った。
私は富士山が好きで、昨年は富士五湖ウルトラマラソンや富士登山競争にも出た。
富士山の姿を見つけると、一旦涙を止め、カメラを構えて窓に張り付いた。
それからは、中部、関西、四国と変わる景色に見入った。私は広島から西は、沖縄しか行ったことがなかったので、空から見る瀬戸内に浮かぶ島々などの景色がとても新鮮だった。まだ見たことのないものを見るこの感覚が、徐々に私を前向きにさせてくれた。
九州に差し掛かる頃、「九州に住むんだなあ」と、ようやく実感が湧いた。風向きに合わせて機体の向きを変え、長崎空港へ着陸態勢に入る頃には、さすがに涙は止まっていた。というか、泣き疲れて頭痛がした。
長崎空港に迎えに来てもらい、新居へ。その日は、お酒を沢山飲んで寝た。
ここから、長崎での私の物語が始まるのだ。
以上です。